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2017/04
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怒涛のような9ヶ月
主人が脳梗塞で倒れ怒涛のような9ヶ月。その日、その日に出来ることを全力でやって何とかここまでやってきました。5月の主人の退院と入れ違いに痴呆症の義父が誤嚥性肺炎になり、気管切開をして二人目の身体障害者となり、要介護1の義母を含め健康なのは私一人というすごいことになりました。
ケアマネさんにまで同情される始末ですがきれいごとではなく、介護が大変だと思ったことはただの一度もありません。(いや、最初は正直、きつかったかも)

わたしの精一杯の介護が効いたのかどうか、かつては気の強い私と常に家庭の主導権を争っていた主人は病気になってからは本当に優しく私を気遣うようになりました。

嫁いびりが得意だった義母もちょっとした事にも感謝してありがとう、ありがとうと言って、可愛らしいおばあちゃんになりました。

遠くにいる小姑たちも感謝してくれるので悪い気はしません。

本当に辛く大変だったのは主人の仕事の残務処理でした。

このご時世なのだからでしょう。暗闇のジャングルではチョット目に美味しそうに見える手負いの動物は格好の餌食なのだと痛感しました。

モンスターはあちこちにいて病後間もなく、まともに歩けない主人をやむなく引っ張り回すこともしばしばで悔しいやら可哀想やらで車中で涙することもままでした。
そんな時は主人も申し訳ないと言って泣いてしまうので大声で「がんばろう!日本! がんばろう! パパ! 前に進むしかないんだよ!」と叫びます。
「おうっ!」
(なんちゅう単純な夫婦なんでしょ)
モンスターの牙の前に挫けそうになった時、心の支えになったのはただ一つ、応援して見守ってくれている関係者の方々に絶対迷惑をおかけしてはならないというそれだけでした。

今はまだ7合目あたりですが秋には心身ともにゆっくりと静養させてあげたいと思っています。

主人は20キロ痩せましたが煙草も止めて、顔色も良く、減塩と野菜中心の食事にプロテインで筋力をつけて体も引き締まって去年より若返ったように見えます。
私は2キロ痩せてナイスバディです(笑)

ご心配をおかけしましたが元気でやってます。
東日本大震災
去年のインターネットラジオドラマ「原発震災」に参加してシュミレーションはしていたものの、現実に大津波、原発事故、コンビナート火災と日々増え続ける死傷者の数と被害の甚大さに圧倒されて言葉もない。

家族を捜し、がれきの中で呆然と立ちすくむ人々の映像を見るにつけ、ただ祈るしかない自分がもどかしい。

被災された皆様がどうか一刻も早く家族と無事対面されますよう、心よりお祈り申し上げます。
血沸き肉躍る日々
契約目前に倒れた主人は信頼できる業者の方の助けで無事、お客に迷惑をかけることもなく契約を締結することができた。大きな土地売買契約だったのでそれなりのお礼もせねばと考えていたがあっさり、買い方の分は貰っていいんだなと言われ、その時寝返りすら打てない状態の主人はただ、黙ってうなずくしかなかった。
回復の見通しもつかず、将来に不安を感じていた私にとって大きな金額が半減したことは少々不満だったが「欲張るな。彼だからこそ成就できたのだから。0だったかもしれないんだぞ。」と、主人にたしなめられ、それもそうだと納得し感謝した。
数人の地主の残りの地面についてもこの不景気にもかかわらず、オファーをもらっており、相談したところ、経験豊富な彼からは冬の間は動かないし今は体を治すことが何より先決だからそれは慌てずおいておきなさいとアドバイスを受けた。

ところがその土地の売買契約を別件で隠れて進めていることがわかり、見舞いと言って病院に来た彼からは「こちらはこちらで話を進めるからそちらが決まったらまた連絡をくれ」との戦線布告。さすがの主人も「種まきをして20年、地主の首根っこは抑えてあるぞ」と言ったら「早い者勝ちだ」とのたまったそう。
そ~ですか そ~ですか 入院している夫に早い者勝ちですか。勝算あったんですね。
しかも組んだ相手は忘れもしない数年前に自分の不始末を全部主人に責任をなすりつけてだまし恩を仇で返した相手。警察や裁判所をかけずりまわって身の潔白を晴らしたもののあの時のくやしさを決して忘れることはできない。
彼は同じ輩ではないし、大変な時に助けてもらって感謝しているけれど早い者勝ちと言われてふっきれた。
それでは主人の指示のもと私が動くしかないじゃないですか。
入院中で何もできないと相手が油断している今こそチャンス。
遠方の病院から一時帰宅させてオファー先の若手と私とで主人を抱えるようにして地主詣での毎日。

元気な時はお人よしでただ働きばかりと思っていたけれど、主人の種まきをしてからの20年間はやはり無駄ではなかった。どこへいっても誠意をもって対応してもらい、めでたく契約の運びとなった。
バンザーイ!!!
刀を磨いて準備する
うら若き頃、私はテクニカルツアー専門の旅行会社の営業社員として働いておりました。英語は堪能ではなかったもののお客様の希望もあり、私自身の仕事の最終仕上げとして添乗員として海外に同行(当時はそれで通ったのです)することも多かったのです。


しかし、春先、秋口の海外の展示会には世界中から商談客が殺到し、一流ホテルでも行ってみたらオーバーブッキングで泊まれないとか霧のためにトランジットルームで10時間足止めをくうとか、はたまたストライキで列車が出ないとか常にトラブルはつきものでした。

アクシデントに見舞われた時のツアー客の一斉の不安げな視線を痛いほど感じつつ、背中の冷や汗を悟られないようにこやかに笑いながら見えないところで夜も眠らずに走り回ったり、時には泣きながら交渉したりと必死の毎日。

必死の努力はお客にも通じるのか帰国するころにはトラブルを乗り越え家族のように親しくなってリピーターとなってくれるお客様も多く、やりがいのある仕事でした。でも若いからできたのだと今つくつ”く思いますけど。


日本では笑顔で包容力のある立派な方にみえたのに足止めをくったトランジットルームで自分の腕時計を叩きながら商談に間に合わないじゃないか。どうしてくれる、責任をとれと怒鳴り散らす方に「霧で出ないのだから添乗員さんのせいではないでしょう。」とたしなめたのは気難しそうと感じていた方でした。

異国の地で一人、会社の看板を背負ってなんとしてもツアー客を無事帰国させねば・・・。大手の旅行会社のような万全のフォローもなく、色んな辛い経験を通して人の本質は追い詰められたときこそ表にでるということを知ったのです。そして最悪の場合に備え常に何があっても対処できるように心構えと準備することを覚えました。
このころの経験は今の私に本当に役立っています。

これからますます辛い世の中になってもそういう時こそ本当に自分にとって誰が信頼できる人なのか、必要な人なのかはっきりわかるいい機会です。

ただおびえ、悲観的になるよりも刀を磨いてどう動くべきか考え準備しましょう。


今私は戦いの最中で血湧き肉躍る毎日ですが生きてる実感があります。詳しくはまた。
お雛様
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毎日山のような雪と格闘しておりましたが、少し落ち着いたのでお雛様を出しました。
私が本当に小さいころはテレビや娯楽など何もなくて、両親が私や妹の為に半日がかりで七段を組んでお雛様を出してくれるのがとても嬉しかったことを思い出します。
この娘のお雛様とは23回目の春を迎えますが月日の経つのは本当に早いものです。
お道具などを並べていますとお雛様のとは比べようもないのですが、母の長持ち(今は物置でお座布団いれになっている 笑)や鏡台など記憶にありますのでタイムスリップしたような気分になります。
娘もそうですが欧米風の生活に慣れた若者にはピンとこない様で、このような日本の情緒ある文化が年々希薄化していくのではないかと残念です。

しばし、すべてを忘れていにしえの雅な雰囲気に浸ります。


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雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
WIKIPEDIAより
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